このブログは始めたばかりなので、のりさんの簡単な紹介をします。台東生まれの父と桐生生まれの母の間に生まれました。誕生地は母の実家桐生です。両親が早々と離婚したため、母方の祖父母に育てられました。幼稚園から小学校の時代です。南小に行きました。
今は亡き南中に1カ月在籍した後、台東の下谷にいた母の所に行きました。母が下谷で小料理屋を始めたのがきっかけでした。中学、高校時代を下谷で過ごしました。大学は静岡でした。学生の時は青春時代をしていた気がします。笑
大学卒業後2年小田原に住みました。小田原で蒲鉾を作ったり、売ったりしていました。その後東京に戻り、ワインの輸入販売に就きました。この時代、ワインを飲みまくりました。ワイン鑑定の技術も身につけました。ところが、アメリカに研修があるという事で、エンジニアリングの会社に入りました。
数年そこでエンジニアリングの修業をしたのち、アメリカに1年行きました。この時、ネブラスカ州で名誉市民をもらいました。東ヨーロッパから来ていた客員教授の助手をしていて、教授たちが州の財務長官に招待を受けた時、わたしも名誉市民をもらっちゃいました。笑 でもアメリカにいた時が一番勉強したと思います。いつも深夜過ぎまで大学の図書館にいました。
日本に戻って、暫くして会社の白河工場の管理者として行く事になり、8年白河に住みました。30代で会社の取締役になりました。この会社取締役時代が、一番世の中というものを学んだ気がします。
アメリカにいた頃に知り合ったスイス人の女性と結婚したのですが、彼女がスイスに戻りたいと言い出し、結局それに押されて、全てを投げ打ってスイス移住を決めました。当然会社からは強く慰留されました。会社を辞めるのに2年必要でした。
白河時代、手打ち蕎麦、手打ちうどん、手打ちラーメンなどの技術を身につけていました。スイスで手打ち蕎麦、手打ちうどんを紹介する仕事をしようと決めていました。手打ち蕎麦屋の開業コースを受けたのちスイスに行きました。
スイスはベルンに住んでいます(今も一時帰国という感じです)。ベルンで作業所を借りて、手打ち蕎麦のケータリング・サービスから始めました。その頃、ぽかぽか地球家族で紹介されました。蕎麦屋を作りたかったのですが、場所がなかなかみつかりませんでした。それでも、色々な場所で手打ち蕎麦を紹介出来て面白かったです。評判も上々でした。時にはドイツまで仕事に行きました。
リーマンショック以降、このケータリング・サービスが悪くなりました。お店の開店も景気の悪化で開店資金の借り入れが難しくなり、自己資本による開店が大変難しくなりました。今、共同でお店を作ろうと言う話が進んでおり、開店までまだ時間があるため、桐生で母が作ったお店「志門」を手伝っています。
スイスでは私の手打ち蕎麦、手打ちうどんは大変好評でした。ドイツではハノーファー市の市長が絶賛してくれました。彼は日本食が好きで何回か日本に行っているのですが、日本で食べた蕎麦よりうまいと褒めてくれました。
現在日本にいるわけですが、私の手打ち蕎麦、手打ちうどんを食べたお客様は、専門店よりおいしいと仰って下さる方もいます。ただ、確かに「志門」は専門店ではないのですが、手打ち職人を自称している私にとっては、確かな味を提供して当然でなければならないと思っています。
人生の中で一番長く住んだ場所は東京ですが、次いで桐生、白河、ベルン、静岡、小田原、アメリカ、真鶴の順です。この中で自分にとって故郷と思える地が、東京の下谷、桐生、白河、静岡です。桐生はその中でも生誕の地として特別な思いがあります。真鶴は昔から別宅でしたので、実は地元という意識がありません。スイスのベルンも流石に故郷というには抵抗がありますが、私の子供たちにとっては故郷となったと思います。ベルンに戻ると、私も落ち着きます。
旅行好きです、風景写真を撮るのが好きです。サイクリング、登山、スキー、ダイビングなど、フィールドを動き回るスポーツが好きです。
子供が日本とスイスの複国籍者であって、将来日本の法律によってどちらか一方の国籍を選択しなくてはなりません。スイスは複国籍を認めていますので、日本もそうなって欲しいと思い、そういう活動もしています。自分もスイスでは外国人移民ですから、日本に住む外国人の苦労に共感します。自分のできる範囲でこうした人達の為になることを出来ればと思っています。
お店では、確かな味をお客様に提供するよう、日々努力をしていきたいと思っています。蕎麦粉は那須産のもの、うどん粉は宮城から取り寄せています。材料費も高いので、お値段は正直他店より高いかも知れません。しかし、同じ質であれば値段が安いと思います。今後も努力して、いいものを最大限に良心的な値段でご提供していきたいと思っています。
どうぞ宜しくお願い致します。
0 件のコメント:
コメントを投稿